逃げるしっぽを追いかけろ

生物学専攻大学院生の趣味ブログ・マイペース更新

亜人とデジタルツイン

亜人という漫画がある。現代科学が提供し得るすべての観測方法でヒトと比べても全く区別がつかない生物、ただし、「死んでも生き返る」という明確な特徴を持つ生物が亜人だ。

 

例えば、亜人の爪一枚残して、体の他の部分をその爪より小さい大きさに切り分け、そのパーツを互いに十分遠くに配置する。すると、その亜人は、いちばん大きなパーツである爪を種として体を再生し、生き返る。残りのパーツは肉片として転がったままだ。

 

物語に出てくる亜人たちは、そうやって再生成された「新しい自分」には元の自分の脳が引き継がれていないので、それは元の自分の死(人格的な死)と考えている。だから、頭部が再生成されるような死に方を恐れる。

 

 

一方で、亜人とは全く別の話として、デジタルツインという考え方がある。脳内の神経細胞が行う演算処理を人工物で再現し、人格のコピーを作るという考え方だ。

元の人格が宿る身体が死んでも、デジタルツインはSNSなどで情報を発信し続け、人格は社会的に生き続ける。不老不死の人格の出来上がり。

 

ただ、ここで亜人に戻って考えると、このデジタルツインと言うのはある時点での人格の再現ではあるが、厳密には元の人格とは別人格と考える方が適切ではないか。

 

それに、脳内の情報処理が本当に再現できるようになるとすれば、それは与えられる情報に対してとても繊細に応答するだろうし、少しの違いが将来的に大きな差を生み出すはずだ(バタフライエフェクトやカオスと呼ばれる類の)。

もちろん、元の人格と完成したデジタルツインに与えられる情報を物理的に完全に等しくすることは不可能だから、与えらえる情報の微小な差を原因として、元の人格の内部で起こることとデジタルツインの内部で起こることは徐々に乖離していくだろう。例えるなら、塩基配列上は同一であるはずの一卵性双生児が異なる人格を発達させるように。

 

こう考えると、デジタルツインで実現できるのは、対人インターフェイスあるいはペルソナの不死であって、主観の不死は実現できないのではないだろうか。

 

自分は、1つの連続した主観で色々なことを経験するのが生きることの醍醐味だと今は考えている。そういう意味では、自分のデジタルツインが自分として情報を発信し、永遠に社会的生存を維持し続けることにはそれほど魅力を感じない。

 

一方で、そうやって社会的な死を避けたいと考える人の気持ちに興味がある。

何か凄いことをして、未来永劫語り継がれたいという考え方はよく耳にするが、そういう欲求を持つ人は社会的な死を避けたがりそうな気がする。

実際のところどうなんだろうか。